パックリ

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111月28日の朝日新聞のTV欄.
赤い背景に大きな文字で書かれた文字がある.
「パックリ」...
これが,軟膏「ヒビケア」の広告とは誰も思わないであろう.

広告の下部には
「いますぐ パックリ 検索」
ともある...

とりあえず,「パックリ」をGoogleで検索かけてみると
確かに上部のスポンサーリンクで該当の「パックリ」が表示されるんだけれども,
それ以外の検索結果があまり卑猥なのだ.

パックリ - Google 検索 <http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AA&sourceid=navclient-ff&ie=UTF-8&rlz=1B2DVFD_jaJP226JP226>

どうした,池田模範堂
「ムヒ」の名を汚さないで~.

論文を批判的に読むってどういうこと?

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私が論文を読むようになった(読めるように訓練を始めた)のは7年程前である.
で,そのときの指導教官から現在の指導教官,その他いろいろなところで
論文を読む際にいわれることがあった.
「論文は批判的に読め!」とか「粗探しをしろ!」とか...

この7年間,その意味も分からず「批判的に読め」という言葉を思い出しては
批判せず(できず)に読んでいた.
なぜか?
批判的に読まなければならない理由がイマイチ掴めていなかったからだ.
というか,その方法だとか,
そんなことまでいちいち教えてもらう必要は無いのかもしれないが,
批判的に読むための「姿勢」といったものが見えていなかったのだと思う.
いわゆる,
「I cannot see」
である(あってるかな).

ところで,私の最近の仕事といえば論文のリバイスなのである.
ゆえに,教授とのディスカスも長時間行われたりする.
そのようなことをしていく中で,
「学術論文とはどういうものか」という話へ逸脱することがある.
つい先日もその話を聞いていたところ,
私は「論文を批判的に読む」ということに対する意味がクリアーになった.
私はそのときはじめて理解した
いわゆる
「I see」
である(あってるよね).

なぜ,論文を批判的に読み,粗探しをしなければならないのか?
論文に必ずしも正しいことが書かれているわけではないからだ.
言い換えると,
論文を執筆したヒトは必ず,
「この部分は突っつかれたくないなぁ,」
とか
「この点についてはまだ不十分なんだよなぁ」
といった,問題点を抱えている(はずだ).
その点についてはNatureやScienceに掲載された論文であれ然り.

ある意味当然である.
では,なぜ私は批判的に読むことに対して理解を得ることができなかったのか.
それは,Reviewerの存在かもしれない.
基本的に,論文をsubmitすると何人かのReviewerによって査読が行われ,Reviseとなる.
そして,そこで指摘された問題を改善することで論文はacceptされるわけだ.

だから,論文の問題点は改善されるのだからひよっ子研究者の私が批判的に読まなくとも
Reviewerが指摘してくれていると..
しかしながら,ここが間違いだったわけだ.
間違いの理由はいくつかある.

理由1:Reviewerがすべての問題点を見つけられるわけが無い.
投稿者が論文を書く際にあまり突っつかれたくない部分があればそれが分からないようにするであろう.
それはウソを書くわけではなくって,真実の中に紛れ込ませてあやふやにしてしまうようなものであろうか.
だから,投稿者が巧妙に書き上げた論文の隅から隅までを理解してすべての問題点を列挙することは非常に難しい(と思う).

理由2:投稿者はReviewerからコメントされたことに関してのみ論文を改善すればよい
論文というものは新しい知識を人類が共有するために論文として公開するわけだ(よね?).
でも,論文を掲載するまでは投稿者は人類のことは考えない.
考えるのはEditorやReviewerへの対応のみだ.
だから,Reviewerからの質問の範疇で適切な回答をすればよいのだ.
こちら側から,範疇を外れるたり,超えたりする回答をする必要は無い.

以上より,
論文には新しい知識というものが当然含まれるわけだが問題点も残ることになる.
新知識が間違っているというわけではなく,あくまでも問題点が潜んでいるということ(多くの場合ね).
だから,指摘されなかった問題やReviewerの質問をうまくかわした部分を見つけることが
「批判的に読む」とか「粗探しをする」ことにつながる(と思う).

だらだらと文章を書いてしまったもので,
私の言いたいことが伝わらなかったかもしれない.
その場合の最終手段をお教えしたい.

     :
     :
     :

「自分で学術論文を書く」

     :
     :
     :

である.

以上.

古本屋

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最近,古本屋に行く回数がめっきり減った.
以前は2週間に一回ぐらいは通っていたのだが...

「何故か?」と問われれば,
「時間が無くなったからよ」いうありきたりの言葉になってしまう.

「何故時間が無くなったのか?」と問われれば,
「学校(研究室)にまじめに行きだしたからよ」という回答は間違っていないと思う.
たしかに,昨年とは違い,今年はきっちり学校へ行っている.

「ほかにもあるだろう?」と問われれば,
「心のよりどころとしての古本屋は必要なくなったからよ」ということになるかもしれない.
学校にも行かずに自分について悩んでいたとき,
古本屋のおやじと話をすることで「安心」を感じていたのではないだろうか.

古本屋の店主であるが故,当然,彼には博識がある(偏りはあるけれども).
様々なことを知っている.
「自分の店のどこにどの本がある」ということから,
「地球とリンゴは等価な存在」といった事まで...
少しオカルトが入っている部分は否めないが
そこがまたおもしろいところであった.

そんな古本屋に最近は行っていない.

「おまえは古本屋を捨てたのか?」といわれれば,
「そんなことないさ」
と言い張る私.

そいう言いながら,,,
一つ一つ,,,
何かを置き去りにしてしまうのかねぇ.

     :
     :
     :

今度の土曜か日曜に古本屋に行こうと思う.

- Wonderland JuJu Mistic Book Shop <http://murasakishikibu.co.jp/wonderland/>


10月15日追記:
10月14日(日)に古本屋へ行った.
おやじと少し話でもしようと思っていたのだが,
他のお客さんの相手をされていたので,お話できなかった.
おやじの古本屋には,
お悩み相談に来られる方がいっぱいいるわけなのだ.

自販機 誤動作

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昔の話

実家の近くの雑貨屋の前にコカコーラの自販機が設置されていた.
で,小・中学生の頃はよくそこの自販機を使っていた.

たぶん,小学生の頃だったと思うが,
私はなぜかその自販機に百円玉を入れては
つり銭レバーを動かして百円を取り出すという動作を繰り返していた...
まさにstereotypy.
ホントになんでそんな馬鹿なことを繰り返し続けていたのかは今では分からない.

とにかく,一生懸命,百円玉を硬貨投入口へ入れてはつり銭口から取り出していたわけだ.

すると,つり銭口に硬貨が落ちる音が二度響いたわけだ.
手を突っ込むと,二百円入っていた...

その繰り返しによって,偶発的に機械が誤動作してしまったのであろう...

当時は,ジュース一本百円の時代だったので,
結局,私はジュースを二本買った.
今思えば,百円でジュース,もう百円でお菓子を買えばよかったんじゃないのと
伝えてあげたくなる.
小学生だったから,舞い上がってたんだろうね.

お得な現象は内容に差はあるとしても,
多くの人が経験したことがあると思う.
でも,やっぱり昔の話.
現在の自販機はそう簡単にミスってくれない.
「自販機 vs. 子供」では,
技術の進歩故の悲しさか,
自販機に軍配があがるのではないか.

そういえば,このところ,あたりつきの自販機であたりがでることも無くなった.
あたり付きの自販機を利用する頻度が減ったということも関連しているかもしれないが...

車 防犯 ベル

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家の近くでも学校でも車の防犯ベルはよく鳴り響く.

いろ~んな音色を出して,盗難車と近辺住人を煽っている.

場合によってはダンプカーとかでっかい車が通り過ぎるだけでも

ベルを鳴らしだす.

防犯になっているのは間違いないのだろうが,

弊害も出ちゃってるからちょこっとイヤになっちゃう.

とかいいながら,自分のビークルにもつけているんだけれども,

振動では鳴らないようにしている.

迷惑だと私が思っていいるから.

そんな人の気持ちを理解できる人間でありたいと思いつつも,

マフラーの音は意外とうるさかったりするかもしれないなぁ...


写真:使える写真ギャラリーSothei -フリー画像素材 <http://www.sothei.net/>

立ち漕ぎ

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学校に行く途中で自転車に乗っている青年を見かけた.

そこで,私がとても心を打たれた点.
それが,立ち漕ぎだった.


彼は長い髪をなびかせながら,一生懸命立ち漕ぎをしていた.
ふっつ~のチャリで...

ここ2年ほど,まとも自転車に乗っていない私.
当然,立ち漕ぎなんかず~っとしていない.
(そういえば,グリーンパークで二人乗り自転車には乗ったなぁ)

同じ二輪車であるバイク(SUZUKI RF400R)には乗っているが,
立ち漕ぎはできない,,,できるわけない...

ゆえに,非常に新鮮さを感じたわけだ.

立ち漕ぎでスピードをグングン出すことで,目的地へ早く到着したい思う気持ち.
そして,風と一体になる瞬間.

「自転車でもバイクと同じようなことを味わっていたじゃないか」 と思い出す...

それでも,バイクに載っちゃう理由.

「立ち漕ぎの上り坂ほどツライものはない」
「立ち漕ぎ出なければ坂は上れないが,だからといって途中で諦めるのも九州男児らしくない.けど,やぱツライ」

ってこと.

話は変わって,実家の近くには「地獄坂」という坂がある,
結構な坂で,200メートル弱の直線距離.
Google マップ
地獄坂というだけあって,事故が多かった(昔はね).
私もその坂をブレーキをかけずに下ろうと試みたところ途中でコケて
耳から血を出したことがある.

で,何が言いたいか,

小中学生の頃はこの坂を自転車で上りきることに人生か何かを賭けていたわけだ私は.
小学校低学年の頃は,
まだ頭でっかちだったせいかどうしても最後まで登りきることができなかった.
小学校高学年にもなると,
立ち漕ぎセンスを身につけた私は「ゼェハァ」言いながら上りきれるようになっていた.

中学校を卒業後は親元を離れてしまったので,
その後はめったに自転車で上らなくなってっしまった地獄坂.

学校に行く途中で自転車に乗っている青年を見てそれを思い出した.

「また,地獄坂登ってみたいなぁ.」

以上